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亀山上皇銅像 [旅行・ドライブ(福岡県)]

前ネタです。

県庁の用事も済ませ、でも昼飯にはまだ少し早い。
武が「亀山上皇銅像を見に行こうぜ!」って言うので東公園まで…
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福岡県庁の前ですね。始めて寄りました(^_^;)

中にずいずい入ると目的の像が見えてきます
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説明によると敵国の降伏を祈願された…そうです

亀山上皇銅像
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「亀山天皇(かめやまてんのう、1249年7月9日(建長元年5月27日) - 1305年10月4日(嘉元3年9月15日))は、鎌倉時代の第90代天皇(在位:1260年1月9日(正元元年11月26日) - 1274年3月6日(文永11年1月26日))。諱は恒仁(つねひと)。後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。后腹では後深草天皇に次ぐ次男。大覚寺統の祖。父母から鍾愛され、兄の後深草天皇を差し置いて治天の君となり、やがて亀山系の大覚寺統と後深草系の持明院統との対立が生じる端緒となった。(Wikiより)」

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敵国降伏」の文字が…(^_^;)

「文永2年(1265年)には、元のクビライからの国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。院政中には2回の元の対日侵攻(元寇)が起こり、自ら伊勢神宮と熊野三山[1]で祈願するなど積極的な活動を行った(当時の治天であった亀山上皇か、天皇位にあった後宇多天皇の父子いずれかが「身を以って国難に代える祈願」を伊勢神宮に奉ったことは史実だが、父子のどちらにその祈願を帰すべきかは、大正年間に学者の間で大論争を呼んでいまだ決着のつかない問題である)。文永11年(1274年)、蒙古襲来により炎上した筥崎宮社殿の再興にあたり亀山上皇は敵国降伏の宸筆を納めた。現在、筥崎宮の楼門高く掲げられている額「敵国降伏」の文字は、文禄年間、筑前国領主小早川隆景が楼門を造営した時、臨写拡大したものという。
(Wikiより)」

県庁の近くにこんなのがあったとは…まだまだ知らないことが多いなぁ(^_^;)
勉強になりました。

場所DATA
所在地:〒812-0045  福岡県福岡市博多区東公園内
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